略称:狭山人権の会

狭山事件と人権を考える茨城の会

狭山事件と部落差別




【目次】
(1)被差別部落をねらいうちした差別捜査
(2)差別を利用した取り調べと「自白」の強要
(3)検事論告、裁判所の差別性
(4)今も内田幸吉差別調書を擁護する東京高裁
(5)40年以上も事実調べをしないのは狭山事件だけーこの差別的扱い

【資料】
1,事件当時の差別捜査についての証言
2,警察や検察は、事件捜査の中で部落差別をよく知っていた
3,採用された差別調書(内田幸吉夫婦、奥富栄)
4,検事論告と判決の差別性
5,石川さんの生い立ちと部落差別
6,差別をあおるマスコミ報道


(1)被差別部落をねらいうちした差別捜査

 狭山事件は、警察や検察という国家権力が、部落差別をつかって無実の石川一雄さんを「犯人」に仕立て上げた差別事件です。

 当時、吉展ちゃん誘拐事件に続いて狭山事件でも犯人を取り逃がした捜査当局は、大きな批判にさらされ、柏村警察庁長官が辞任、篠田国家公安委員長も連日国会で追及され、当時の池田首相夫人も中田家を弔問に訪れるなど、異例の大治安事件となりました。

 何としても「犯人」をあげなければならなくなった警察は、被差別部落をねらって集中的な見込み捜査を展開。それは部落の中で「刑事がはち合わせする」ほどのものだったといいます。これをみた地元の一般住民は「こんな残酷な事件を起こすのは部落だ」と差別意識をかきたてられていきました。

 このような中で、アリバイがはっきりしなかった、友だちから借りたジャンパーを返さなかったなどのささいなことを理由に石川一雄さんを別件逮捕。また石川さんが逮捕されると、マスコミも「部落は悪の温床」と差別報道をくりひろげました。

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(2)差別を利用した取り調べと「自白」の強要

 石川さんを不当逮捕すると、取り調べの中で警察や検事は、石川さんが部落差別の中で小学校もろくに通えず、文字も書けないことを利用して、弁護士不信をおあり、拷問と甘言でウソの「自白」を強要していきます。

 しかし石川さんはどんなに脅かされても、逮捕から1ヶ月間、自分はやっていないと頑として無実を主張し続けました。最近のえん罪でも、1日から数日でウソの「自白」をさせられてしまう人が多いのですが、孤立無援の中で石川さんがこのように頑張れただけで、石川さんは無実であることが分かります。

 「私がやったと言った一番の理由は、警察に、私がやったと言わなければ、兄が犯人だから兄を逮捕すると言われてそれを信じてしまったことだ。貧乏な我が家で兄を逮捕されたら一家が飢えてしまう。それで兄を逮捕しない代わりに私がやったと言った。警察はそうすれば手に職をつけて10年で出してやるという約束もしてくれた」と石川さんは訴えています。

 警察は石川さんの家族をとりまく差別と貧困、教育を奪われた「無知」、そして家族愛につけ込み、犯人にでっち上げたのです。何というひきょうなやりかたでしょうか。

 

片手錠と腰縄をされたまま取り調べを受ける石川さん

石川さん専用に改造された川越署分室

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(3)検事論告、裁判所の差別性

 検察は石川さんを起訴するにあたって、「貧しい家に育った家庭環境だったから、このような殺人を犯す人格になった」という差別論告を行いました。

 一審・浦和地裁は、このような差別捜査の実態を十二分に知りながら、それを批判するどころか、石川さんを「鬼畜の所業」「一片の人間心さえ見いだすことができず、悪逆非道の限り」とののしり、まともな調べもせずにわずか半年で死刑判決を下しました。石川さんを殺して、「事件は人間とも思えない鬼畜の部落出身者のしわざだった」として、この差別事件をすみやかに闇に葬ろうとしたのです。

 二審・東京高裁での控訴審の冒頭、自分がだまされていたことを知った石川さんは、「自分殺していない」と無実を叫びます。そして獄中で必死に文字を勉強して出した石川さんの手紙は、全国の部落大衆や労働者、市民の心をつかみ、狭山差別裁判糾弾のたたかいは大きく発展しました。

 これに対する東京高裁の寺尾判決は、「差別捜査はなかった」と断じ、10年をかけた公判で明らかになった石川さん無実の証拠をすべて否定して、無期懲役とする判決でした。客観的証拠と「自白」がことごとく食い違っているのは「石川がウソつきで、捜査員がそれをそのまま信じたからだ」という論法です。

 部落差別の問題についての証人申請に対しては、寺尾裁判長は十数冊の本の名前を挙げて、「このように勉強して分かっているから必要ない」とすべて却下しておきながら、判決ではまったく触れないというペテンまでやってのけました。

 寺尾判決は、表現こそはロコツではありませんが、一審の判決よりも悪質で差別的だと言えます。

 最高裁の特別抗告棄却決定も、「差別はなかった」として、警察の差別捜査をおおい隠し、全面的に擁護するものでした。

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石川一雄さん宅



(4)今も内田幸吉差別調書を擁護する東京高裁

 このような警察、検察、裁判所の差別は、過去のものではありません。

 事件が起きてから1ヶ月も経ってから、被害者宅の近くに住む内田幸吉夫婦は、石川さんが被害者の家の場所を聞きに来た、というデタラメな届け出をしました。内田幸吉は、なぜ早く届けなかったかについて、「菅原四丁目の部落の人たちが集団で押しかけてくるから怖くて言えなかった」と露骨な差別証言をしているのです。(内田差別調書)

 また当初の複数犯説に沿って「石川さんを含むあやしい2人組を見た」と届け出た奥富栄もまた、「菅原四丁目の人達が集団で押しかけて来るかも知れないと思い、隠すようにしていた」と言っています。(奥富差別調書)

 全国水平社以来、部落の人々は部落差別事件が起きると泣き寝入りするのではなく、一人への差別は部落大衆全体への差別であるととらえて、差別者に対して果敢に差別糾弾闘争をたたかってきました。これに対して、自分の差別性を反省するのではなく、逆に「部落は集団で押しかけてくるから怖い」というゆがんだ差別意識を持つ人たちも多くいました。内田幸吉証言は、まさにその典型で、「犯人」が一般民ならすぐに届けたが、部落なので糾弾されるのではないかと怖くて届け出が遅れた、といっているのです。

 この内田差別調書について、第二次再審の棄却決定で、東京高裁(2001・H14年)も最高裁(2005・H17年)も「多勢で押しかけられたりして怖いと思い、すぐに届けなかった・・・証言の信用性に疑問はない」と全面的に認めたのです。「部落の人たちは恐ろしい」という内田幸吉の心情は当然だ、と裁判所が認めたということです。

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(5)40年以上も事実調べをしないのは狭山事件だけーこの差別的扱い

 裁判所は、1974(S49)年の寺尾判決以来(正確にはもっと前から)40年以上、一切の事実調べを行っていません。すべて密室の書面審理だけで棄却決定をくり返しています。こんな裁判は狭山事件だけであることは、裁判所も認めています。狭山事件には、通常のまともな審理さえしない、ここに狭山を差別的に扱っている裁判所の姿勢がはっきりと現れています。

 狭山事件はこのように、事件の発生から今日の再審裁判まで、部落差別に貫かれた差別裁判です。だからこそ、これまで「狭山差別裁判糾弾」をかかげて狭山闘争がたたかわれてきたのです。この点をしっかりとおさえて取り組まなければ、決して勝利することはできないでしょう。

 逆に、部落差別を許さない、差別に貫かれた権力犯罪を許さない、石川一雄さんは無実だ、という怒りの声が裁判所を広範に取り囲んだとき、私たちはかならず再審開始と完全無罪判決を勝ち取ることができます。

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資 料


1,事件当時の差別捜査についての証言

2,警察や検察は、事件捜査の中で部落差別をよく知っていた

3,採用された差別調書(内田幸吉夫婦、奥富栄)

4,検事論告と判決の差別性

5,石川さんの生い立ちと部落差別

6,差別をあおるマスコミ報道



1,差別捜査についての部落解放同盟埼玉県連・野本武一さんの証言

                             (昭和47年6月17日 第2審第62回公判)

○証人はこの狭山事件の特捜本部の、中県警刑事部長に面接して何か話をなさったことがあるんですか。

 5月の24日か5日と思うんですが、その日がちょっとはっきりしませんが、中刑事部長と堀兼の特捜本部、農協の支所でその日の2時15分から会っております。で、問題は不当な逮捕、不当な取調べに対する抗議をいたしました。

○不当な逮捕という言葉を使われましたが、どういう点が不当なのか、あなたの感じ、あるいは事実をもって。

 石川区長との面談の中でもこういうことを言っております。その石川氏の家庭の周辺は、刑事がはちあわせになるような状態で見込み捜査が行われたという、そういうことを区長は言っておりました。やはり石川君の家庭を中心として集中的に刑事が張り込んで、ここに犯人がいるぞというような態勢の中でぶつかりあうというそういう集中攻撃がかけられた。

○あなたは警察が筆跡等を集めた文書をご覧になったようなことがありますか。

筆跡については120人前後の人々から筆跡をとったと、これは分厚いメモがございました。その中身は見せてくれなかったわけですが、これ位(10センチ位を指で示す)のものを見せてくれたわけです。…取り調べにあたっては堀兼地区と石田豚屋を中心に捜査を行ったと、更に加害者の血液型がB型であるということでB型の人達を調べた、部落差別という人権問題についての考え方は毛頭ないという、そういうことを、中刑事部長の弁解があったわけです。

○それに対しては証人としてはどういう点を特に説明をして、不当な逮捕ということになったんですか。

私共はもう一つはその刑事部長と会うために堀兼の支所を訪問した際、たくさんな新聞記者に取り囲まれました。部落解放同盟の責任者という立場で取り囲まれて、あと2人逮捕者が出る、これを知っているかと、こういうようなことが新聞記者の口から言われたわけです。…これは新聞記者自身がそういうことを勘で言うんではなくして、警察自らあと2人の犯人が部落から出るんだという考え方の中でそういうことを発表しているんじゃないかと、こういう抗議を行いました。

○このあと2人逮捕されるかもしれないというのは、だれをさしているということはあなたは後にわかりましたか。

 それであとすぐTAとIK、部落出身の2名が逮捕されたということです。

○あなたはその後自分の足で部落に対する不当な見込み捜査であるという観点から、足を運んでいろいろ調査をなさったことがありますか。

  あります。

○それをちょっと説明して下さい。

 その前にこういう問題があったわけですよ。5月24日の埼玉新聞では石川君の地区をさして特殊地区という見出しで、犯罪の特殊地区そういうような見出しのもとに大々的に差別キャンペーンをはったわけであります。これは埼玉新聞だけでなく、石川君が逮捕されると同時にマスコミ、全国をあげて差別記事を堂々と報道したわけです。で、これに対しても、当時の石川区長は埼玉新聞に対して区長として強い抗議を申し入れております。私共も埼玉新聞を訪問して、その差別記事の不当性について抗議をいたしました。で、そういう中で私共は差別というものの持つその悪質な一体となった姿、これを糾明するためにいろいろ活動をしたわけであります。

○たとえば同じ泥棒をしたんじゃないかという場合も、部落の人が泥棒したんだといえば警察にも通じやすいとか、そういうようなことがこの世の中に実際にあるんでしょうか。

 それはたくさんな例があるわけです。(略)で、そのことはたとえば石川君が逮捕されると同時に新聞機関はすべてをあげて部落に対する集中的な攻撃をかけてきました。更にその狭山市では入間川公会堂で市民大会を開いております。

○それはいつ頃ですか。

 38年5月27日と思いますが。その市民大会は何を目的としたかというと、青少年を守る会議だという名前で市民大会を開きました。その市民大会の席上で宮崎教育長は重大な発言をしております。

○狭山市の教育委員会の教育長の宮崎さん。

 はい。それは部落からその犯人がでたということを明らかにしながら、残念だと、これからはそういう犯人を出さないように私共の手で青少年を守ろうという提案をしております。これは市民大会を通じて部落民に対するにくしみというものをうえつけている。

○それはどういう理由ですか。

 それは部落の中から犯罪者が出たということ、従って我々は二度と出さないようにそういうものから守らなければいけないという考え方、これは差別的な発言である。

○つまり部落民は犯罪を犯しやすいんだ、こういう一つの事件についてもすぐ部落に結びつきやすい考え方、そういうものを教育長が利用して部落からは犯罪者を出さないという形で、あたかも当然部落民がこの本件の犯人だというような考えを示したと、いうことですね。

 そうです。それからマスコミの問題、もう1つはあと2人IK、TAの不当逮捕の中にも、部落民に対する予断と偏見というものがたくみに利用されて、そして一般の関心が部落に対するこの事件を通じて憎しみが集中するような、こういう行動がとられた。

○第一審の石川君の裁判を通じて自白を維持したという問題がありますね。

 はい。

○これは石川君の説明によれば10年で出してやるという甘言にだまされて約束したと、こういうようなことになっておることもあなたはご存じですね。

  はい。

○そういうような態度をなぜとったかというようなことを、部落という点から評価づけることはできますか。 

 できますね。私は石川君がなぜその自白をしたのか、そういう点からみなければいけないと思うわけであります。で、石川君はご存知の通り今日ではすばらしい成長をなしとげております。このことは教育の機会均等というものが石川君に保障されていたならば、むしろ石川君が第一審において堂々と警察の不当性、裁判所の不当性を堂々と法廷で述べたでありましょう。しかしその当時の石川君は小学校も満足にいけなかったという実態の中で、法律がなんたるかもわからない、ただ一番頼りにしたのは最後には警察官であったということ、しかし警察官の甘言によって石川君は自ら自白をいたしました。

 なぜ自白を維持し続けてきたか、その点は私は第一審の法廷でずっと最後まで傍聴してまいりました。不可解なことには全くというほど石川君は裁判長の質問にも弁護団の質問にも答えられない、ただ下を向いているだけで、間違いありません、その通りです、これだけの言葉しか出なかったわけであります。従ってそういうような石川君の態度というものが、いわゆる石川君の自白を誘った関巡査との結びつき、そういうものが石川君の言葉で言うならば、十年で出してやるという言葉を信じきった石川君が自白を維持し続けてきたと、そのことは部落差別が石川君という人間をそういう何事も社会から離れるような人間に作り出してきたと、そして警察の甘言によって自白を強要され、それを維持するという立場を終始一貫して守ってきたということが私は言えると思います。

○この石川君の性格というのは、いわゆる差別をされた人達の特徴と言いますか、そういうようなものとして意外と義理堅いといいますかね、心にもないことを約束した以上は守るというような気風がありませんか。

 部落の人はいついかなる場合でも自分のとった行動には責任をもちます。従って全国共通な感情というものはやはり差別が原因でありましょうが、結びつくと共通感情というものを持っておりますからやはり義理堅い、これはやはり差別されてきた人同士が結びついてきた今日までの社会の実態と言いましょうか、そういう関係で非常に弁護士の先生がおっしょる通り義理堅い考えの中に私は生活していると、で、石川君の場合でもそのことがはっきり言えると思うわけです。彼は独房の中に入れられても面会人その他文書に対しては一人一人ていねいに返事を書かなければ気がすまんというような、全くそういう点ではすばらしい義理堅い人物だということが言えると思います。

○そういう差別された者同士の中で育つ一つの心理状態ですね。そういうものが10年で出してやるということで心にもなく石川君が自白した。そういうまあ男の約束と言いますかね、そういうものを心ならずも守り続けた態度が一審の自白維持の問題であり、それは部落差別という問題からとられなければその気持ちはわからんと、こういうようなご証言ですか。

 私はやはり部落差別がなぜ今日残されているのか、差別がなぜ残っているのか、そういう点が明らかにされないと狭山事件の本質というものの究明はあり得ないと思います。従って単なる殺人事件、死体遺棄強姦、こういうことだけに裁判が集中されるならば必ず石川君が犯人として死刑の判決を受けるでありましょう。私はそういうことでなく、石川君の生い立ち、裁判官がはっきりその判決文の中でも言われておりますように、判決文そのものが私は差別の判決文と考えております。そういう立場に立って考えるならばなぜ石川君が教育の機会均等を奪われた、就職の機会均等を奪われたのか、部落に生まれたもう一人の別件逮捕によって逮捕された東島明の生い立ち、あるいは石田一義の生い立ち、というものが克明に究明されて、その中でそれでは犯罪とどう結びつくのか、こういう点が明らかに究明されない限り、私はこの裁判というものが差別裁判であるということを言わざるを得ないわけです。

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2,警察や検察は、事件捜査の中で部落差別をよく知っていた

@中勲・埼玉県警本部刑事部長証言  (昭和45年12月3日 第2審第39回公判)

○特殊部落ということについて、そういう言葉は、あなたのいろいろな経験の中で知っていますか。

 知っております。

○石川一雄くんが、そういう出身であるということも知っておりますね。

  のちに聞きました。

○いつごろですか。

 新聞に出る前後、出た頃でしょうか。

○それから、埼玉の議会の中で、議員が警察関係の責任者を議会に召喚した時に、この捜査は、菅原四丁目の特殊部落(ママ)に対して、集中的に捜査が行われておる、これは特殊部落に対する予断と偏見、差別に基く捜査であるということについて警察の責任者が、釈明を求められたことを記憶ございませんか。

 ございません。私は責任者ですから本来なら私ですが、私そういう記憶はございません。

○特殊部落に関する記事が新聞に載ったという野本さんという人の解放同盟からの話合いがあったということについてあなたは、特に考慮をなさいましたか、捜査をする上において。

 これは、絶対に、さような差別ということがあってはいかんということで捜査陣にも、全部、幹部を集めて注意をいたしておりましたし、間違ってもそうした問題のないように、ということで処置をいたしております。

○野本さんという人の申し入れに基づいて幹部を集めて、差別的な捜査をしてはならんとおっしゃったというわけですか。

 差別的な捜査と私ども解釈しておりませんで、そういったその差別をするようなことを捜査過程においてあってはならないと。

○そうすると特殊部落という出身者がこの地域におるということは、あなたはご存じなわけですね。

 その時点では知っております。

○その時点というのはいつですか。

 その抗議を受けた時点です。私は全然知りませんでした。特に私が知っておりますそういう部落というのは、一応集落を形成しておるのが普通ですけれども、石川被告の付近には、そういった状況は全然ないですから、私どもも、そういうことは全然考えておらなかったわけです。捜査の過程でわかってきたんです。

 或いはご存じないかもしれませんけれども、特に埼玉県におきましては、そういう問題といいますか、もう一般の人自体が知らないというのが普通でございます。

○石川くんが、特殊部落の出身であるということは、どうしてあなた知ったんですか。

 捜査の過程、その他で、堀兼地区付近、捜査をしている付近が、昔むしろ旗を立てて押しかけて来られたんだという話が大分出て参りまして、それで知ったんでございます。

○誰から報告を受けて知ったんですか。

 誰からというあれはありませんけれども、捜査員の説明を聞いておりますと、そういうことでなかなか口が固いと、堀兼付近の住民がですね。

○堀兼地区住民の口が固い。

  はい。

○それは、部落関係から来るというご証言ですか。

 なんか、そういう、昔、むしろ旗を立てて、押しかけたという事案もあるし、うっかりしたことは話せないんだという報告があったんです。

A竹内武雄・狭山警察署長証言  (昭和45年12月8日第2審第41回公判)

○狭山署に地元の、これは部落解放同盟と言いますが、そういう人達の関係の人があなたに直接ですね、面会を求めて部落問題を含んでおる、あるいは、部落に対して差別的な捜査が行われておるのではないかというような抗議と言いますか、陳情と言いますか、そういうことがありましたか。

 相手は記憶がありませんが、そういう抗議を受けたことはあります。相手は記憶ありません。

○あなたはその後、そういう事情もありまして、その後、あるいはそれ以前からでも結構ですが、この石川一雄君が特殊部落の出身であるというようなことを調査されたか、もしくは、聞いたことがありますか。

 はい、聞いていますね。

○この石川君との関連でと思いますが、6月4日頃でしょうか、記録を見なくちゃわかりませんが、TA君、あるいは、IK君というのが逮捕されておりましたね。

  はい。

○この二人の青年も部落出身だということは聞いておられますか、知っていますか。

  ええ、知ってますね。

○筆跡を調べるというか、まあ、大変御苦労な捜査だった思うんですが、筆跡を部落の中、約120名位あたってらっしゃるという事実を聞いていますが、そういう事実ありますか。

  120名ですか。

○そのことで筆跡の捜査を広範囲に、われわれが調べたところでは120名ということが出ておりますが、それは事実ですか。

 120名かどうか知りません。とにかく、広範囲に筆跡捜査ですか、やったことはありますね。

○そういう筆跡捜査の対象になった人達がいわゆる特殊部落に含まれておる大部分の人であるということで現地で問題になり、あなた自体抗議を受けたことはございませんか。

  私、直接はありません。

○間接には聞いておられますか。

  間接も現在私は記憶ないです。

○記憶がないというのは、聞いたことがあるけれども、その内容を忘れたということですか、どうですか。

 抗議はあのときいろいろきましたですからね、何の抗議か、いちいち現在は私記憶がありません。私がそういう面で受けたのは多分一回です。

B小島朝政・埼玉県警捜査一課の証言  (昭和46年11月11日 第2審第55回公判)

○それから、さきほど証言にちょっと出てきましたが、何回目かの捜査のときに部落の者が大勢押しかけておったという言葉がありましたが、あなたは石川君が未解放部落であるということを知って警戒して行ったのですか。

 いいや、そのときは私は知りませんでした。

○あそこら辺で部落という名前を使いますか。

 部落という名前は聞きません。

○そうすると、今、初めて部落という言葉が出てきたんですか。

 いやいや、そうじゃなくて、これはまあ、露骨な話になって僭越ですが、私は捜査の途中でですね、S町という言葉を聞いたんです。S町、あれは入間川何丁目というんですか、というのをそういうふうに捜査員の誰かさんに聞いて、S町という話を耳にした程度です。

○そうすると、S町が何を意味するということを知ったのは、いつ知ったんですか。初めてですか。

 それは手拭の捜査が相当発展してきた頃だと思いますね。

○その席上、これは中刑事部長の証言にもありますが、部落民に対する見込み捜査かどうかは別にして、そういう方面に誤解があるといけないから、気をつけて捜査しなさいという訓示がありましたか。これは証言にありますから思い起こしていただきたい。

 私は極端にその言葉を憶えていません、今。

○極端に憶えていなかったら、少しは憶えておる。

  そう言われればということですね。

○そう言われれば。

  そう言われれば、そんなことがあったかもしれないという程度ですね。

             (当時の石田養豚場。ここで盗まれたスコップが犯行に使われたとでっち上げ、

              警察は部落への集中的な見込み捜査へとつきすすむ)

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3,採用された差別調書(内田幸吉夫婦、奥富栄)

@内田幸吉 供述調書  (昭和38年6月5日)

 事件を知ると同時に、私方に、中田さん方をききに来た男が、事件に関係あるのではないかと思いましたが、掛りあいになってはという素人考えから、誰にも申し上げず、今日に参りました。

 そのうちに、入間川四丁目の石川という青年が、犯人として捕った事を知り、益々恐ろしくなって誰にも話さない決心を前よりも強く致しました。と申しますのは,4丁目の人達は、団結して大勢で押掛ける事がありますので、萬事をしゃべったために、おどかされるような事があってはと、心配したからです。

 この事は、絶対外部に洩れないように、くれぐれにもお願い致します。と申しますのは、新聞等に判ると連日押し掛けられるし、四丁目の人達に押掛けられる心配がありますので、重ねてお願い致します。

A内田くに 供述調書  (昭和38年6月5日)

 事件を知ると同時に、私方を訪れた男が何か事件に関係ある様な気が致したのでありますが、素人考えから、うっかり話しては大変なことになると思いましたので、主人とも話し合ってこのことは一切他言しないことに致しました。

 そのうち誰れ言うことなく、犯人は入間川四丁目方面の者ではないかと言う風評が強くなりましたので、これは余計他人には話せないと思う様になりました。四丁目の人達は、何かあると団結して押しかけて来ること承知して居りますので、恐ろしいと思いました。

 私が一番心配していますことは、このことが世間に知れることであり、特に四丁目の方々に知れない様くれぐれもお願い致します。そのことさえ心配なければ、事件の解決のため御協力致します。

B内田幸吉の法廷証言(1審)  (昭和38年11月13日 第1審第5回公判)

○石川一雄が逮捕されたのち警察にいって石川一雄を見たことありますか。

  ありますが。

○それを見て5月1日に訪ねてきた男とはどういうふうに思いますか。

  大体顔かたちで似ていると思いましたね。

○今ちょっとうしろを見てね、石川を見て下さい。

  (うしろを見て)そうです、そうです、この人です。

C内田幸吉の法廷証言(2審)  (昭和41年5月31日 第2審第17回公判)

○(被告人石川一雄を指示した上)証人は、そこにいる人に前に会ったことがあるか。

  ありません。

○証人は、昭和38年5月1日晩、証人のところへ人が訪ねて来たということについて原審で証言されておるが、今弁護人が指示した人はその人ではないわけか。

  古いことではつきりしたことはわかりません。

○証人は原審では同じこの被告人をみて、5月1日晩訪ねてきた人はこの人だと言っておるがどうか。

  忘れました。

○原審では、10日か20日位経てから証人が5月1日晩のことを届出たということを言っており、それに対してどうしてそんなに遅く届け出たかということを聞いたが、証人ははっきりした理由を言わなかったが、その理由は何か。

 届出る前に届出た方がいいか、届出ない方がいいか、とても心配してしまい恐ろしくなってしまったのです。

○【裁判長】何が恐ろしくなったのか。

  それがよくわからないのですが、警察に届出る前、ただ恐ろしかったのです。

○恐ろしかったと言われたが、どういうことで恐ろしかったのか。

  ただ恐ろしかったのです。

○何がただ恐ろしいというのか。

  口では言えないのですが恐ろしかったのです。

D第2次再審・特別抗告棄却決定  (平成17年3月16日 最高裁判所・島田決定)

 内田員面(※調書)は、その後、中田方の善枝が殺害されたことを知り、その男が本件との何か関係のある人物ではないかと思ったものの、警察に届けて係わりを持つと多勢で押しかけられたりして怖いと思い、直ぐに届け出なかったが、結局思い直して届け出た。」(略)という趣旨のものであって、同人の証言を裏付けこそすれ、同証言の信用性を左右するものとは認められない。

E奥富栄の供述調書  (昭和38年6月5日 検察官・原正の作成調書)

(※奥富栄は、事件当日、石川一雄さんを含むあやしい2人組を見たと届け出た。この調書を作成したのは原検事で、後に一審差別論告を書き、石川さんに死刑を求刑した判事である。原検事もまた狭山事件をめぐる部落差別問題は十分に分かっていた上で、あのような差別論告を書いたのである。また原検事は、第2審第17回公判で「奥富栄の供述は信用できると考えた」と証言している)

 私は最初からその事件は判っておりましたが、警察にこの事を言えば、菅原四丁目の人達が集団で押しかけて来るかも知れないと思い、隠すようにしておりましたが、その後訪ねて来た警察の人が、名前は出さない様にするし、心配はいらないというので、本当のことを言う気になり申し上げた次第です。

(内田幸吉宅)

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4,検事論告と1審判決の差別性

@1審検事論告  (1964年2月10日 浦和地方検察庁 検察官原正)

 被告人は家が貧困であったため、小学校も満足に行くことができず、11,2の時、父母のもとを離れて農家の子守奉公に行くようになったが、その後、被告人が18歳になるまで2,3の農家を転々し、家庭的愛情にはぐくまれつつ少年時代を過ごすというわけにはいかなかった。このような環境は、被告人に対して、社会の秩序に対する遵法精神を希薄ならしめる素地を与え、それが被告人の人格形成に影響を及ぼしたのであろうことは想像に難くない。

 中流以上の家庭に不自由なく育って人を疑うことも知らない純真な善枝は、被告人がかかる兇悪な犯行を企図しているとは露知らず、被告人の指図どうりに右四本杉に赴いたことが認められる。同所における被告人の犯行こそ、誠に悪逆非道のもので…強いて姦淫し、殺害したのである。…このような方法で逆吊りにするという常識を超えた非道な行為は、誠に許し難いものがあり、被告人の残忍極まりない性格を表すものというべきである。

 写真でも明らかなように、その無惨な有様は、鬼神も顔をそむけ、白昼夢を見る思いあらしめる体のものであった。このような一連の犯行は、全く悪魔の所行と断じても過言ではない。

 一方被害者中田善枝は…学業成績優秀であるのみならず、性格は明るく責任観念が強く、家庭では勿論、学校でもすべての者に敬愛され、幸福な日々を送ってきた少女である。

 中田善枝に対する非道な犯行に至っては、天人ともに許さざるところであって、被告人に対しては極刑を持って臨むのほかはないと考える。よって相当法条適用のうえ、被告人を死刑に処するを相当と思料する。

A一審判決  (1964年3月11日 浦和地方裁判所 内田武文裁判長)

 救いを求める同女の頸部を強圧しつつ強姦を遂げかつ殺害した所為は、善枝が当時16歳の誕生日を迎えたばかりのけがれを知らぬ少女であったことを考え併せまことに残忍極まりないものというべく…荒縄をかけたまま土中に埋没した所行に至っては、一片の人間心さえ見出すことができず、悪虐非道の極みといわなければならない。・・・被告人の悪虐残忍性を余すところなく現しているものというべきである。

 一方ひるがえって被害者中田善枝は…末娘として愛育されて幸福な日々を送り、学業成績も優れ、性格は明るく、責任感が強く、学校では教師級友の信頼も篤く、何等非違のない純粋無垢の少女であった

 次に判示その余の窃盗、傷害、暴行、横領等の各犯行は・・・被告人がたやすく右不良仲間と共に右犯行に及んだことは被告人の不良性、反社会性を現すものと見ることができる。

 被告人が、判示の如く小学校すら卒業せずして少年時代を他家で奉公人として過ごし、父母のもとで家庭的な愛情に育まれることができなかったことは、その教養と人格形成に強い影響をおよぼしたであろうこと、そしてそれが、家庭貧困の理由によるものであって、必ずしも被告人だけの責に帰することができないこと・・・右有利な諸事情も特に被告人に対する量刑を軽くすべき情状とはなし難い。

 よって被告人に対しては、判示第一の強盗殺人罪について所定刑中、死刑を選択して処断(する)

B上告棄却決定  (1977年8月9日 最高裁判所)

 記録を調査しても、捜査官が、所論(※弁護側の主張)のいう理由により、被告人に対し予断と偏見をもつて差別的な捜査を行ったことをうかがわせる証跡はなく、また、原判決が所論のいう差別的捜査や第一審の差別的審理、判決を追認、擁護するものでなく、原審の審理及び判決が積極的にも消極的にも部落差別を是認した予断と偏見による差別的なものでないことは、原審の審理の経過及び判決自体に照らし明らかである。それ故、所論違憲の主張は、前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。

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5,石川さんの生い立ちと部落差別

@石川一雄さんの家は、差別と貧困のなかに置かれていました。石川さんがウソの「自白」をした最大の理由が「自分が認めなければ兄が犯人として逮捕されてしまう。そうなったら家族全部が飢えてしまう」と考えたからだということは、前述しました。それほど、生活に困窮していたのです。

 これは、部落差別によってまともで安定した仕事に就けない、子どもを学校にやる余力はなく仕事をやらせるしかない、そのために教育を奪われますます安定した仕事に就けない、という差別による悪循環の結果でした。この時代、全国のほとんどの部落の状況は、石川さんの家族と同じようなものだったのです。

A石川さんは、小学校の時から近くの農家の畑仕事や子守をしていました。石川さんが学校の授業に出席した日数と成績は次のとおりです。

【小学校の出席日数】
学年 1 2 3 4 5 6
出席日数 196 131 213 225 139 178
欠席日数 66 116 29 20 113 187

【小学校の国語の成績】

作る 書く 読む 話す 聞く
4年 −2 −2 −2 −2 −2
5年 −2 −2 −2 −2 −1
6年 −2 −2 −2 −2 −2

    ※−2は5段階評価の1にあたる

【中学校】

  まったく登校せずに働く

Bしたがって石川さんは、逮捕された24歳の当時、文字はほとんど書けませんでした。自分の名前さえ、「一雄」という字が難しいので「一夫」と書いていました。

 一時、石川さんは東鳩製菓に勤めますが、長く勤めると職場の班長になり、書類を書かなければならなくなったので、「自分は字が書けない」ということを言えず、やめたこともありました。そして結局は字を書かなくてもよい仕事にもどっていくのです。

 そもそも、このように字の書けない石川さんが、「脅迫状を書く誘拐犯罪」を思いつくはずもありません。字の書けることが当たり前という世界にいる警察や検察、裁判官らは、そのことがまったく分からないのです。

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6,差別をあおるマスコミ報道

 石川一雄さんが逮捕されると、新聞や雑誌などのマスコミは、「常識外の異常性格」「環境のゆがみが生んだ犯罪」「悪の温床」などと、部落差別をあおる差別記事を書き立てました。






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